──げ、と思った。
やっぱ、あいつ、来てやがる。
指示された時刻より15分ほど早く控え室にやってきたのだが、ベッキョンが入室したときにはすでに、6名の受験者がパイプ椅子にすわっていた。
スマホをいじっている者、イヤホンを耳に差しこんで、楽譜を目で追っている者。
それぞれのスタイルで、この控え室で「オーディション最終審査の開始時刻」を待っているのだが、そのなかに、見覚えのある顔がひとり、パイプ椅子にすわっていたのだ。
そいつは、顔をうつむかせて、膝の上に広げた本を読んでいた。
きちんと切り揃えられた黒い髪(若干、前髪が短すぎるな、と思った)、紺とオレンジのボーダー柄のラガーシャツと、明るいベージュ色のチノパンを合わせている。
髪型といい、服装といい、清潔感はあるのだが、「なにやってんだよ」と思うほどダサかった。
ネイビーとオレンジという、パンチの効いたコンビネーションが、彼の顔立ち・体型・そのほかに似合っているとは言いがたいし、だいたい、そんな明るい色のズボンを履くなら、よっぽど脚の長さに自信がないとダメだと思うのだが。
そのうえ、彼が履いているのは、「スニーカー」というよりは「運動靴」と呼びたくなるようなシロモノだ。
そして、何より最悪なのは、そのメガネだった。
──おそらく「ルックス」というのも相当に重要視されるはずの、芸能事務所のヴォーカル・オーディションで、そんな大学浪人生みたいな、ごっついメガネかけてくるバカが、どこにいる?
だが、いるのである。
この控え室に。
おそらく、総勢400人前後だったオーディション受験者の中から、たった「11」という数に絞られたパイプ椅子にすわって。
最終審査に残った11人のなかに、彼もベッキョンと同じように選ばれて、この場所にやってきているのだ。
*
記憶にある限り、彼と顔をあわせるのはこれが3度目だと思う。
1回目は、今から2ヶ月まえ、別の事務所のオーディションの最終審査の場で、だった。
そこに選ばれた10人前後のなかに、彼も残っていて、そして今と同じようにダサい服とメガネでやってきていた。──課題曲と自由曲を一曲ずつ、控え室とは別室に呼ばれて歌うのだが、その歌声を壁と通路越しに聴いたのである。
最初、課題曲のメロディにのっけられて、彼の声が歌い出されたときには、「へえ」としか思わななかった。
へえ。こんな声してんの。あいつ。
高く、澄んだ声だった。
男にしてはかなりハイトーンの、澄みきって、よくとおる声。
声量もテクニックもかなりある。歌唱のレベルも、危なげなく高水準に達している。
だが、そんな人間なら、「掃いて捨てるほど」いる。
自分も含めて、この最終審査に残るほどの歌い手なら、歌がうまいのは当然のこと、なのだ。
問題は、そこから先だ。
「歌がうまい」以上の、強烈な何かを、持っているかどうか。
あ、やべ、と思ったのは彼が自由曲を歌ったときだった。
「得意球」として、彼は非常にメロウなバラードを選んでいた。
課題曲ではどうということのなかった彼の歌声は、その瞬間、突如、凛としたうつくしい光を放ちだしたのだ。
絹みたいになめらかな? クリスタルのように澄んだ?
ちがう。
月の光みたいにきれいな。
そんな歌声だ。
それは驚きに似た感情だった。
光に、心の奥まですうっと入り込まれて、はっとさせられるような、そんな思いだった。
そういう魅力を放つ歌声だと、直観的に感じて、それから、これが彼の持つ「歌がうまい以上の強烈な何か」だ、と思った。
やばい。
やばいかも、俺。
こいつに、今日ここで、負けるかも。
──オーディションという場所で、自分はいつも、ぎりぎりの地点まで追いつめられる。
審査員は、たいていは一人ではなく、数人いる。3次審査以降だと、ビデオカメラが設置されて、歌っている姿を録画されるのが普通だ。
精神的に素っ裸にされ、複数のプロフェッショナルから刃物のような視線で値踏みされる。
歌唱力は? 伸び代がありそうか?
声の魅力は? 容姿は? 楽器は弾ける?
そのほか、何でもいい、商業的な価値のある、サムシングを持っているのか?
そういうギリギリの地点で、あの彼の歌声を聴いた瞬間、とたんに、足元の地面が瓦解していくような気分に囚われた。
やばい。
俺、こいつに勝てないかも。
嫌な感触の汗が、つうっと体を伝った。
──その日、運命の神様は、自分にも彼にも冷たくて、オーデイションの結果は二人ともが不合格だった……のだが。
*
11脚あるパイプ椅子は、2列になって並べられていて、メガネとダサい服の彼は、前列の左端にすわっていた。
特に指定はないらしく、どの席にすわってもいいようだったので、ベッキョンは後列の右端の椅子に腰かけた。
すなわち、彼からもっとも離れた場所を選んだのだ。
2ヶ月前、彼の歌声を初めて聴いたときの、「俺、こいつに負けるかも」と思った瞬間のあの嫌な感触を、ベッキョンははっきりと覚えている。
だから、50人前後に絞られた3次審査の場に彼がいたときにも、彼の存在に気づかないふりをした。
──たぶん、あいつも俺も、3次審査は通過するだろう。
そう思ったのだが、そのとおりになった。
まあ、いい。
あいつがいようと、いまいと、自分のベストを尽くすまで、だ。
とりあえず、指定された時刻がくるまで、課題曲の再チェックでもしておこうと思い、カバンからスマホとイヤホンを取り出したそのときだった。
本を読んでいた(この時間に、よく悠長にそんなことしてられんな、と思う)彼が、ふっと顔をあげて、それからあたりをぐるりと見回した。
そして、思いっきり、自分と目があった。
とっさに目をそらそうとしたのが、そうできなくなったのは、ダサいメガネの奥の目が、きゅっと笑みのかたちになって、彼が明らかに自分に笑いかけてきたからだった。
のみならず、その笑顔のまま、彼はすわっていた席を立ち上がって、自分のほうへと歩いてきた。
「ねえ、ここ、すわっていい?」
そう言うと彼は、ベッキョンがいいとも悪いとも言う前に、隣の椅子に腰かけてしまった。
すこし話しただけでも、とてもよく通る声。
澄んで、つよく響く。
「きみさあ、ビョン・ベッキョンくんでしょ」
げ。
俺の名前、知ってやがんの。
「……なんで知ってんの」
「えっとね。……2ヶ月前──だっけ、ほら、『A』ってとこのオーディションがあったじゃない。きみは覚えてないだろうけど、俺も、あの最終審査にいたんだよね」
にこっと笑った。
笑うと、何もしなくても下がっている眉尻がもっと下がった。
どうでもいいけど、やけにフレンドリーだな、おい。
「すっごく歌がうまくて、ものすごく目立ってたからさ。強烈に印象に残ってて……で、こないだの、ここの三次審査で見かけたとき、あ、きみも来てるんだなって思って」
はっきりとした二重の、大きな目。
すっと通った鼻梁、鋭角的な輪郭。
顔立ちは悪くない。ハンサムだと言ってもいい。
かなり個性的だが、その個性的な部分が、そのまま魅力として作用するような、そういう顔の造作だ。
けど、前髪切りすぎ。そんで、この、くそだせーメガネ、はずせばいいのに。
「……覚えてる」
ベッキョンがそう言葉を返したとき、彼は「え?」と問い返した。
「覚えてるって、なにが?」
「きみがあのとき、最終審査に残ってたことも。……それから、こないだの3次審査にいたのも」
彼が、ベッキョンの存在に気づいて、意識していたように。
自分のほうも、彼の存在を意識していた。強く。
「あ……あ、そう──だったんだ」
虚をつかれたような顔になった。
意外だったらしい。
「そっか。きみのほうも、俺を覚えててくれたのか。……ねえ」
彼はベッキョンのほうへと身を乗り出してきた。
「ねえ、連絡先、交換しない?」
は?
なんでそーゆー展開?
「ほら。情報交換っていうかさ。きみ、92年生まれでしょ? 実は俺たち、年も同じで」
言葉を重ねてきた。
断られることを、考えつきもしないような、100パーセントの笑顔で。
やばい。
俺、こいつに勝てないかも。
あの日と同じ、嫌な感触の汗が、つうっと体を伝った。
「いや。……俺はいい」
勝手に唇が動いて、言葉がすべり出た。
「俺は、そういうの、したくないんで」
ダサいメガネの奥の目が、はっとしたように見ひらかれ、一瞬で笑顔が消えた。
「そっか」
隣の椅子から、立ち上がった。
「ごめん、邪魔したね」
そう言い置いて、彼は、元いた席へと戻っていった。
*
その日、運命の神様は、ベッキョンだけに微笑んだ。
11人のうち、オーディションで合格したのは自分だけだったのだ。
もちろん、とても嬉しかったが、達成感というより、安堵のほうが強かった。
その安堵のなかに、「とりあえず、あいつに勝った」という思いが、幾分かは含まれていたのだが、ベッキョンは、自分のその感情に気づかないふりをした。
*
──げ、と思った。
なんでこいつが、ここにいんの?
1週間と1日前の、あのオーディションの控え室で、彼の姿を見たときには、「やっぱり」と思ったものだが、今日は「なんで?」と反射的に考えた。
彼は、あの日、落ちたはずだった。
受かったのは自分だけだった。
なんで、入社の契約を結ぶ日に、こいつがこの部屋にいんの?
来るようにと指示されたのは、オーディションを受けたのとは別の場所で、「本社」と呼ばれる社屋だった。
事前に郵送されてきた書類と、身分証明書を提示しなければ、建物内部に入れない、という注意事項を申し渡されていた。──ゆえに、ベッキョンは言われたとおりにそれらを受付で見せ、それから、この5階の部屋までやってきたというのに。
白い蛍光灯がこうこうと灯る、小さな会議室のようなこの室内に、すわっていたのは彼だけだった。
黒いプルオーバーに、濃いネイビーのジーンズといういでたち。
あの日の「パンチの効いた」ラガーシャツより、格段にマシだと思った。
そして、例のメガネをかけていなかった。──あの日、「はずせばいいのに」と何度も思った、あの「くそだせー」メガネを。
「あ」
長机の上の書類に目を通していたらしい彼が、顔をあげた。
「やっぱり。……ベッキョンくんもここに来るんだろうと思ってた」
ドアを開けたまま、先客の彼の姿に驚いて立ち尽くしていたベッキョンに、そう笑いかけてきた。
あのオーディションの日、連絡先を交換しないかと彼から持ちかけられて、自分は、相当に嫌な態度をとったはずなのだが。
そんなことなど、ひとつも起こらなかったように、彼は、また100パーセントの笑顔をベッキョンに向けてきた。
「すわりなよ」
彼は、自分がすわっていた隣のパイプ椅子を、ずずっと引いてベッキョンに示した。
「あ。──ああ」
促されるまま、その椅子にすわった。
「『どうして、こいつ、ここにいるんだ?』って思ってるよね」
「ああ……まあ」
「あの最終審査、合格したのはきみだけで、俺は最初、不合格だったんだけど。──3日後に、電話がかかってきて」
電話? 3日後?
「再考した結果、俺を入社させたいって電話だった。……だから、今日、契約に来たんだ」
その彼の声を耳にしながら、ベッキョンの心のなかに、ひとつの思いが静かに落ちていった。
やっぱり、という思いだった。
あの日、運命の神様は、やっぱり、あの歌声の持ち主にも微笑みかけていたのだ、と。
「メガネ、してないんだな、今日」
そう告げると、隣にすわった彼は、ちょっとはにかんだみたいに笑った。
そんな表情をすると、その睫の長さが際立った。
「あ、うん。……母がお金くれて。『芸能事務所に行くんだから、コンタクトにしなさい』って強硬に言われて」
「へえ。お母さん、賛成してくれてんだね」
「うん、母だけね。……お父さんは、まだ絶賛反対中」
「うちは両親とも基本的に反対してるね。ここに入社できることになって、ようやく『黙認』まできたって感じ」
「あはは、そうなんだ」
屈託なく声をあげて彼が笑ったので、自分も笑った。
笑い声も、自分とは真逆の、澄んだきれいな音で響いた。
「あ、そうだ、まだ自己紹介もしてなかったね。俺、名前はね……」
ひとしきり笑った彼が、そう言いかけたので。
「知ってるよ」
ベッキョンは言った。
「おまえ、キムジョンデだろ」
「なんだ。知ってたの」
ちょっと鼻白んだ表情を浮かべている。
「知ってるさ」
そう。知ってるに決まってる。
──オーディションという場所で、俺はいつも、ぎりぎりの地点まで追いつめられる。
精神的に素っ裸にされ、複数のプロフェッショナルから、刃物のような視線で値踏みされる。
だから、必ず自分に暗示をかける。
俺はこのなかで、誰よりも、一番歌がうまいんだ、と。
この部屋に集まった人間が、何人いようと関係ない。
俺はこのなかの誰よりも、誰よりも、歌がうまいんだ、と。
その暗示を瓦解させるような歌声を持っていたのは、こいつ──キムジョンデだけだったから。
だから、そいつの名前を。
「なんだよ、知ってるならさー、最初から、そう呼べばいいじゃん」
俺が、知らないわけがない。
──『オーディション』fin. (2018.12.31)
(この記事は、「CBXに夢中!」41・Chen51・Baekhyun40です。)
追記:
前回、「ある朝の切符・ある夜の通話」というタイトルで、「CBX誕生前の3人の間で話し合いが持たれていた時期」のお話を書いたのですが、読者様のお一人から「私、これ、半日くらい、ずっと『実話』だと信じてました・笑」というお言葉をいただいて(書き手として、お褒めの言葉だと光栄にも感じたのですが……ありがとうございます。ぺこり)、今回はちょっと、お断りをしておかなくては、と思っております。
ジョンデくん自身がラジオで語ったデビュー前のエピソードというふれこみで「ベッキョンと僕は、同じ歌のオーディションでSMに入社しているのだが、最終審査でベッキョン一人だけが合格して、僕はいったん、落ちた。でもその数日後に、電話がかかってきて、『再考の結果、君を入社させたい』と言われた」という情報を、ネットで読みかじったことがあります(→それについて語った記事はこちら「チェンとベッキョン・ふたりのコントラスト」)。
この『オーディション』は、そのエピソードに基づいてはいるんですが、まず、その逸話の真偽も定かでないうえに、そのほかのディティールの一切合切が「(ベッキョンくんとジョンデくんの熱烈なファンである)私の頭の中で作り出した、フィクション」なんです。すみません。
このお話、あんまり需要がないかなぁ…と、若干、心配したりしているのですが(苦笑)、チェンくんとベッキョンくんの、ヴォーカリストとしてのライバル関係は、私がここまでEXOにのめりこんだ原動力でもありまして、ぶっちゃけこのお話、ずーっと書きたくて書きたくて書きたくて、しょうがなかったんです。(塾が年末年始休みになったら書くぞーって拳を握りしめてました・笑)
ゆえに、「書けて大満足」でもあるのですが、その一方で「書き終わってしまいたくなかった」お話でもありました。……書き終わってしまうのが、名残惜しくて。
この忙しい年の瀬に、暖かい応援コメントをくださる皆様にお返事も書かない上に、いったいなんでこんなお話を書いとるんだ、と自分でも思うのですが、ほんとうにごめんなさい。でも、ご感想をお聞きしてみたいな──と厚かましいのですが、思っております。
どうか、たくさんの皆さまのお気に召しますように。
(2018年12月31日 夜ふかしチョコレート拝)
☆この次のファンフィクションは、こちら。ベク+チェンです。
★次の記事はこちら! 夜ふチョコの新年近況と「オーディション」にいただいたコメントにお返事を書いています。
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