1. ある朝の切符
好きなことなら、たくさんある。
スポーツ全般、特にサッカーと走ることが好き。徒競走ではいつも学年1位だったし、中学の頃には中距離を専門にやっていた。
3歳下の妹とも仲が良くて、二人で一緒に1匹の猫を飼っている。タンと名づけたのは妹のほうだが、彼女に負けず劣らず、とても大切にかわいがっている。
得意科目は数学と理科、苦手なのは英語。でも、将来、英語は必要だと思うから、がんばって勉強している。
部屋がぴしっとしてると気分がいいから、掃除や整理整頓も大好きだ。けれどこの間、せっせと掃除機をかけていたら、「ミンソクのお嫁さんになるひとは、かえって大変かも」と、お母さんに笑われた。そ、そうなのかな?
ゲームも好きだし、ファッションにも興味がある。きれいなもの、かっこいいものが無条件に好きなんだ。それから、音楽が好き。メロディを聴くこと、歌うこと。
でも音楽を職業にするのは難しいと思うから、将来は、工学系の大学に進学するつもりだ。一生懸命勉強して、それから……。
そんな彼が、「東方神起」に出会った。
最初に見た瞬間から、自分でも信じられないくらいに夢中になった。
音楽とダンス。熱狂とリズム。光とメロディ。
なんて素敵で、なんてかっこいいんだろう。
見ていると幸せ。聴いていると楽しい。たくさんのひとたちに、歌とダンスとパフォーマンスで圧倒的な幸福と大きな夢を与える存在。
なんてすばらしいんだろう。
高校3年生のある日、彼は誰にも何も告げずに、早朝の駅で長距離バスの切符を買った。
ソウルにある、東方神起が所属する芸能事務所。そこで練習生を募集するための、オーディションがあるからだ。
心配するだろうから、お母さんには言わなかった。反対するだろうから、お父さんにも告げなかった。仲のいい友達にも、誰にも。
妹にだけはこっそり打ち明けようかと思ったけれど(彼女ももちろん、東方神起の大ファンだ)、「えー、そんなの無理だよ、お兄ちゃん」と一言でも言われたら、自分の決心など木っ端微塵に吹き飛んでしまうのがわかっていたので、黙ったままでいた。
自信なんか、ひとかけらもなかった。
だから、バスに乗り込んだときには、まだ彼自身も気づいていなかったのだ。
——さっき買った1枚の切符が、自分の運命を大きく変えるものであることに。
2. ある夜の通話
『ミンソギヒョン、今、ちょっと電話で話してもいいですか?』
礼儀正しい後輩の彼が、通話をかけてくるときには決まって、その言葉で断りを入れてくる。
「いいよ。すこしなら」
ただし、自分とジョンデとは、もう、ほとんど電話を使って話さなくなっていた。
単純な連絡事項ならカトクですませればいいし、第一、宿舎でも同室で、仕事も一緒、なのだ。
かなりの時間、顔をつきあわせているのだから、電話で話す必要というものが何もない。
『今、ヒョンはどこにいるんです?』
「いま? ジム。今日のメニュー終わって更衣室。ジョンデは?」
『移動中です。車の中』
「そうなんだ」
『はい』
「でも、あの件についてなら、こんなふうに俺とおまえだけで話すのは、よくないと思うけど」
『どうして?』
「だって、ベッキョニが気にするだろう? ……3人が関わってるのに、2人だけで秘密裏に話すのはフェアじゃない」
そう答えたら、電話の向こうからは低い笑い声が返された。
『あなた、やっぱり優しいひとだな。……そんなことを言ってるのはヒョンだけで、ベッキョニなんか、この一件が持ち上がってから、俺にガンガン電話してきてますよ』
「え、そうなの?」
知らなかった。
年下の彼らふたりの間で、そんな通話が交わされていたとは。
——この3人でユニットを組まないか、という話が持ち上がったとき(それは、3人が共通で指導を受けている、トレーナーの冗談のような一言から始まったのだが)、最初からもっとも乗り気なのがベッキョンだった。
もっと歌の仕事がしたい。CDの制作も、ステージも。この3人なら、日本での活動だって視野に入れられる。まずは会社にかけあって、OKを出してもらって、それから……。
上昇志向がつよく、それに見合った努力も惜しまないベッキョンが、そうやって目を輝かせているのに対して、ジョンデのほうは一貫して慎重な姿勢を取り続けている。
3人での話し合いは、だから、ベッキョンが慎重派のジョンデを説得にかかる、という構図が繰り返されており、その結論は出ないままだ。
『あいつ、哀願口調だったり、ビジネスライクだったり。手を替え品を替え、しょっちゅう俺に電話してきて、まあ、攻める攻める』
「ああ、まあね……なんか想像つくけど」
『しつっこいんですよ、ほんと。女の子口説くときも、あのバカ、この戦法なのかな』
「あははは」
自分のほうは笑い声をあげたが、ジョンデからはため息が返されてきた。
『できるんなら、そりゃ俺だって、もっと歌の仕事、やってみたいですよ』
「うん」
『でも、EXOとしての仕事のうえに、さらにスケジュールを組むとして。……俺、今でさえ、わりといっぱいいっぱいなときがあるのに、この上さらに仕事をどーんと増やしたら、ひとつひとつの仕事が、おろそかになっちゃいそうで』
「うん」
『……自信がないっていうか』
そこまで言うと、後輩の彼は、もう一度ふかくため息をついた。
『結局のところ、俺には、ベッキョンほどの実力がない。歌も、ダンスも、そのほかの分野でも。……あいつにはやれたとしても、俺には、やりこなせない場面が出てくるような気がする』
めったに弱音をはかないジョンデが、これほど気弱な声を出すのは、かなりめずらしいことだった。だからとっさに「そんなこと、ないよ」と打ち消してやりたくなった。
だが、ぐっとその言葉をのみこんだ。
単純な慰めを口にしたところで、ジョンデには届かない。彼は非常にプライドが高い男なので、そんな気休めのような言葉は、かえって逆効果なのだ。
「ベッキョニがジョンデのところに、しょっちゅう口説きの電話をかけてくるのは、なぜだと思う?」
『そりゃ、俺が「うん」と言わないから』
「いや、その前段階でさ。なんでベッキョニは、ジョンデに『うん』と言わせたいのか、よーく考えてみなよ。……ちなみに、あいつ、俺のとこには、一度も電話、かけてきてないもん」
電話の向こうの彼が、押し黙ったのがわかった。
だから、ただ言葉を続けることにした。
「あいつと同じくらい歌えて、あいつが持ってない魅力を持ってるの、おまえだけでしょ。……ユニット組むなら、おまえが一番、ほしい相手なんだよ、ベッキョニにとって。ジョンデがいなきゃ、あいつはユニット組めないの」
太陽と月の、光の色が異なるように。
二人の歌声はどちらも美しい色をたたえていて、そこに優劣の差はないのだと思う。
ただ資質が異なるだけ。魅力の方向性が違っている、というだけ。
自分には、はっきりと見てとれるその状況が、月の光の彼からは、見えないことがあるのかもしれない。——太陽の存在が、あまりにもまぶしすぎるので。
ジョンデからは、何の言葉も返ってこなかった。
ただ、じっとこちらの声に耳を傾けている気配だけが、つよく伝わってきた。
自分の投げかけた言葉が、彼の心にちゃんと届いたんだ、と思った。
「ジョンデはこの件、イーシンに相談したこと、ある?」
『いえ。……まだ全然』
「電話かけてごらん? 彼も忙しいひとだけど、きっといいサジェスチョンをくれるよ」
『そうですね。……そうしてみようかな』
ジョンデは、誰かに背中を押してほしいのかもしれなかった。
けれど自分では、彼の背中を押せない。……押すことができるとしたら、あの中国人の彼の言葉だけだろうと思った。
『ねえ、ミンソギヒョン』
「うん?」
『どうしてベッキョニが、あなたには口説きの電話をかけてこないか、わかってます?』
「うーん、そうね……」
まあ、なんとなく、察しはつく。
ユニットを組むなら、ジョンデは、ベッキョンにとって、「もっとも欲しいメンバー」であり、「どうしても必要な相手」だろう。だから必死に電話をかけて、ジョンデのことをかき口説こうとする。
対して、自分には、ジョンデほどの実力がない。……この3人のなかで、「数合わせ」的な要員であるのは、否めない事実だと思う。
だから別に。
ベッキョンが自分に、電話をかける必要、というものが。
『あなたがすでに、この計画に乗り気だから、ですよ。——ヒョンのことが、ユニットに必要ない、とかじゃなくて』
けれど、ジョンデの言葉は、ミンソクの思惑とはまったく別の場所から投げられてきた。
『あなたがすでに意志を固めているから。だから、口説きにかかる必要性がない』
「……そ、うかな?」
『そうですよ。あいつ、無駄な球は投げません』
そこまで言うと、ジョンデは、いいですか、と改まった声で切り出した。
『いいですか、ミンソギヒョン。俺、こういうの、一度しか言わないんで、よーく、聞いておいてくださいね。……このユニットの話、ベッキョニも俺もあなたも、同じ重さで関わってるんです』
黙りこんでしまったのは、今度はむしろ自分のほうだった。
『あなたは代替不可能な存在ですよ。俺とベッキョンがそうであるように』
「……うん」
『少なくとも、俺はあなたが加わっていないのだったら、この話、ハナっから乗ってません。そして、ベッキョンにとっても、それは同じことだと思う。ヒョンは、俺と彼が持ってない色を、はっきりと持ってる』
人当たりのいいジョンデにしては、めずらしく強い口調で言い切られた。
だから、その言葉が、自分の心の中に落ちていくのがわかった。
静かに。とても深い場所まで。
『あ、あと……そうだ、ミンソギヒョンにお願いがあるんだった』
「なに?」
『この話、ジュンミョニヒョンに、それとなく伝えておいてもらえませんか。3人の間で、こういう話が持ち上がってるってことで。まだ結論は出てないけどもって』
「ああ。……それなら、もう彼に話した」
『あ。そうだったんですか』
「うん。誰かから聞くより、俺から聞いたほうがいいだろうと思って。会社に持っていくより先に」
何の気なしにそう答えたつもりだったが、電話の向こうのジョンデからは、彼が歌うときと同じように澄んだ音の、笑い声が返ってきた。
『ほら、そういうところですよ。……ヒョンが持ってて、俺とベッキョニが持ってない色っていうのは』
じゃあまた、とジョンデが言って電話は切れた。
バックパックに、着替えたシャツをたたんでしまいながら、ジョンデが話してくれた自分が持つ色の話と、彼がたてた笑い声のことを、ミンソクは思い返していた。
(2018.07.16)
(画像はお借りしております。ありがとうございます。)
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(あの……お断りするまでもないんですが、今日の記事は、100パーセント、フィクションです。すみません、急にこんなのを書いてしまって。アンコンのジョンデくんが黒髪で、私の大好きな「Moonlight」をソロで前半歌ったという話を聞いて、もう好きすぎて何がなんだかわからなくなって、つい、書いてしまいました)
(そして、いただいたコメントへのお返事がすごく遅くなっていてすみません。でも、すべてのお便り、とても楽しく嬉しく拝見しています。ありがとうございます。お返事が遅れているうえに、こんなことをお願いして恐縮なのですが、今日書いたお話、もしお気に召しましたら、ご感想など聞かせていただけると嬉しいです。)