季節はずれの嵐のせいで、その夜は、もとから数えるほどの客しかいなかったのだが、ソファ席の二人連れが出ていくと、店内に残ったのは、その青年とバーテンダーのレイだけになった。
「あの。……すみません」
青年に呼びかけられて、レイはグラスを磨く手を止めた。
「はい」
「このカクテル、すごく美味しいですね」
「ありがとうございます」
「スコッチベースの……なんだろう、とても複雑な味だ」
「ベルモットを、2種類、使ってございますので」
「もう一杯、これと同じのを、作っていただけませんか?」
カウンター前のスツールに腰かけた青年は、そう注文する言葉の最後に「sir」をつけた。
年の頃なら、25、6歳の青年である。
大人びた顔立ちをしているが、それを裏切るように、彼には、純粋で世慣れないニュアンスがあった。
着ているブラウンのスーツは非常に仕立てがよく、ひとめで、どこかのテイラーで誂えたものだろうと思われた。
その高価そうな身なりといい、客でありながら、バーテンダーのレイに対して、敬語を使ってくることといい、おそらくは、上流階級に育った若者だろう。
名家の人間であればあるほど、実は、サービスを施してくれる相手に対してきちんと敬意を払うものだ、ということを、バーテンダーという職業についているレイは、世知というより、真理として知っている。
「……ご注文のウィスパーでございます」
青年の前にグラスを置いた。
「あ。……ありがとうございます」
ふたたび言葉の最後に「sir」をつけて、彼は、丁寧に礼を口にした。
「『Whisper』——ささやき、ですか」
「はい」
「それがこのカクテルの名前なんですね?」
「さようでございます」
「誰からの『ささやき』でしょうね?」
ひとしきり、快活に彼は笑った。
笑顔になると、青年の目が、三日月のかたちに細められることに、レイは気づいた。
そして。
『あの。……あなたは、中国人の方ですか?』
さきほどまでの流暢な英語から、かなりおぼつかない感じの中国語にきりかえて、青年が尋ねてきた。
『そうです。おわかりになりますか?』
レイも中国語に切り替えた。
「あなたのお顔立ちと、英語を話すときのアクセントが、チャイニーズのものだったから。……だから、そうじゃないかな、と思って」
中国語で話すのは、簡単な受け答えが限界らしく、青年は再び、英語に切り替えて会話を続けた。
「そうですね……この言葉の訛りっていうのは、こっちに長く暮らしていても、なかなか直りませんね」
レイのほうも、英語に戻してそう答えると、青年は、ふたたび、目を三日月のかたちにして笑った。
「いやあ、僕だって、いつも友人たちから、英語の訛りを指摘されてばかりですよ」
『お客様は、韓国人の方ですね?』
今度はレイが韓国語で尋ねると、青年は、はっと驚いた顔をしたあと、ひどく嬉しそうな声をあげた。
『うわ! あなた、韓国語が話せるんですね!』
『はい。少しなら』
『わあ……嬉しいですねえ……こっちで自分の母国語を聞くと、とても懐かしくて。……ええと、僕、韓国語で話しても?』
『ええ。ぜひ、どうぞ』
『イギリスにいらしてから、もう長いんですか?』
韓国語のまま、青年が続けた。健康的な好奇心を顔に浮かべている。
『そうですね……』
あいまいに笑ってみせただけで、レイははっきりとは答えなかった。
長いといえば長い。
この国には、おそらく、この青年の生涯の4倍ほどの年月のあいだ、暮らしているのだが、そんなことを答えてもしかたがない。
自分の見た目が二十代後半程度のものであることを、レイはきちんとわかっている。
『お名前をうかがってもいいですか?』
『レイと申します』
『ああ……じゃあ、この店の「Lay」っていう名前は、あなたのお名前なんですね』
『ええ』
『僕は、韓国の大学を卒業してから、こっちに来たので。今年で3年目になるかな』
『そうでいらっしゃいますか』
『祖父が、若い頃、この国に留学していたんです』
『ほう、お祖父さまが?』
『はい。……祖父から、イギリスの話をたくさん聞いて育ったので。僕の中にも、この国への憧れが育まれたというか』
『なるほど』
『大学院で留学先を選ぶときに、まっさきにロンドンの大学にしようと決めまして』
『……では、お客様は、普段はロンドンにお住まいなんですね』
『そうです』
『こんなスコットランドのはずれまで、よくお見えになりましたね』
『ふふ、そうですね。……この街のことを、祖父がよく話してくれたので。それでいっぺん、来てみたくて』
そこまで答えた青年は、レイの顔を見て、なにか言いあぐねた顔をした。
言いたいことがあるのだが、何から、どこから話せばいいのかわからない。
そんな逡巡を見せたあと、だが、意を決したような顔で、青年はレイを見すえてきた。
「……この街に来たとき、祖父は、たぶん、今の僕と同じぐらいの年齢だったと思います。ですから、今から60年ほど前のことですね」
青年は、ふたたび、英語に切り替えて話をはじめた。
「そのとき、祖父は失意の時期にありました。韓国に残してきた婚約者の女性を、列車の事故で亡くしたばかりだったんです」
「それはそれは……お気の毒でございます」
「ロンドンから北へ向かう列車に乗って、この街で降りて。あてどもなく歩いて、彼はとあるバーに入りました」
「……」
「問わず語りに、祖父が、自分の失意の原因を、そのバーテンダーに打ち明けると……そのバーテンダーは、祖父にとある人物を紹介してくれました」
レイは黙ったままでいた。
……もしかしたら、という思いが、レイに言葉を発することを躊躇させていたのだ。
「祖父に紹介されたのは、カイという名前の、若い、ピアニストの男でした。……そのバーテンダーいわく、彼に頼んで『天使の詩』をピアノで弾いてもらいなさい、と。そうしたら、『掛け違えてしまったボタンを、きちんと掛け直すことができるから』と」
「……」
「バーテンダーの手引きで、そのバーにカイという男がやってきて、祖父は、言われたとおりのことを頼みました。……カイは、『この店のピアノで、これからその曲を弾くから、自分の真後ろに立って、目をつぶっているように』と祖父に告げたそうです」
「……」
「祖父がはっきり覚えているのは、カイが奏でたピアノの、最初の一音だけ。……つぎの瞬間、祖父が目をあけたときには、彼の目の前に、亡くなったはずの婚約者の女性が立っていました。……『どうしたの?』と驚いた顔で」
「祖父は、自分が、韓国の婚約者の部屋にいることに気づきました。時間がちょうど1年分、巻き戻っていることも」
「……」
「そして、これが、『掛け違えたボタンを掛け直すことができる』チャンスなのだ、と理解したそうです」
「……」
「祖父は、フィアンセに、彼女が事故に巻き込まれた日時の列車に乗らないでくれ、と頼みました。……婚約者の彼女は、祖父に言われたとおり、その列車には乗りませんでした。……従って、その日に起こった事故にも巻き込まれず、ふたりは無事に結婚して……その後、家庭を築き、息子ふたりと娘ひとりをさずかった。……その娘が、僕の母です」
青年は、そこで言葉をきった。
レイのほうも黙ったままでいたので、店の中には沈黙が広がっていった。
そのしじまのなかに、戸外の季節はずれの嵐の音が、不協和音のように混じり込んでいった。
「祖父の話では」
沈黙を破ったのは、青年のほうが先だった。
「店の名前は『Lay』で、バーテンダーは中国人の男性だったそうです。……彼の名前を尋ねたら、店と同じ名前だと。そして、スコッチベースの、とびきりうまいカクテルを作ってくれたんだ、と」
何も言わずに、レイは、青年の顔をじっと見つめた。
「この店の名前も、あなたのお名前も『Lay』ですよね?」
青年も、レイのことを見つめ返してきた。
青年の顔からは、さっきまでの快活そうな笑みはすっかり消えていた。心の中の傷口が、まだ癒えずに生々しく血を流しているような、そんな顔をしていた。
「お願いです。……僕は、ずっとこの店を、あなたを、探していました」
「……お客様」
「僕にも、掛け違えたボタンがあるんです。それを掛け直す、チャンスをください」
「お客様、それは……」
「4年前の10月のことです。あるひとから訊かれた。『俺がいなくても、きみは大丈夫か』って。僕は虚勢を張って、大丈夫だ、と答えてしまった。翌日、彼がいなくなるなんて、思ってもみなかった」
青年の強い瞳が、射抜くようにレイを見ていた。
「ほんとうは大丈夫なんかじゃなかった。全然、大丈夫なんかじゃなかった。彼がいなければ、彼がいなくなってしまったら、僕は、僕たちは……」
青年の声は、最後は苦しげにかすれた。
口調は、激昂した人のそれだったが、彼の顔は、ひどく傷ついたひとの表情を浮かべていた。
『お客様、よく聞いてください。……一度しか申し上げませんから』
レイは、青年の国の言葉を選んで語りかけた。
そのほうが、彼の心の深い場所まで、自分の声を届けられると思ったから。
『お客様には、掛け違えたボタンなんて、ありません。……彼が去ったのは、あなたの言葉によって、ではないんです。彼が出て行くことが、彼にとっても、あなたにとっても、最良の選択だったんです』
『どうして、あなたにそんなことが言えるんです? あのとき、僕が彼に、ちゃんと……』
『わかるからですよ、お客様。……私には、ただ、わかるんです』
レイがそう告げると、みるみるうちに、青年の顔が泣き出す直前のようにゆがんでいった。顔を深くうつむかせ、両手で覆ってしまった。
レイの視線から逃れるように。
——あるいは、不本意に浮かべてしまった涙を、見せないように。
手つかずになってしまったカクテルグラスが、カウンターの上で、透明な雫をまとわりつかせていた。
『彼は……』
しばらく続いた沈黙のあと、顔を手で覆ったまま、青年は、声を絞り出すようにして母国語で言った。
『彼は、あなたと同じ国のひとでした。……僕が中国語を少しだけ話せるのは、彼のおかげ』
『そうでしたか』
レイが相槌を打つと、青年は低く笑った。
『少ししか中国語を話せないのも、彼のせい』
『……どういう意味ですか?』
『彼の韓国語のほうが、僕の中国語なんかより、ずっとずっとうまかった。……だから僕たちは、いつだって、韓国語で話してたから』
「ああ……せっかくのカクテルが」
顔をあげた青年は、苦く笑うと、雫のついたグラスを手に取った。
「すっかりぬるくなってしまったな」
青年が、話す言葉を英語に切り替えたことに、一拍遅れて、レイはようやく気づいた。
「作り直しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。これをいただきますよ」
かすかに笑って、彼はグラスに唇をつけた。
「……フレーバーもいいけど、これは、ベースになってるスコッチが、しみじみと美味いんですね……」
ひとりごとのような言葉を口にして、青年は笑みを浮かべた。
彼が微笑むとき、細められたその目は、三日月のようなかたちになることを、レイは静かな瞳で見ていた。
(2019.06.08)
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(北の大地、今日、めっちゃ寒いです…)
(実はこのお話、昨年の11月の終わりぐらいからずーっと書きたかったんです。……ようやく形にできて、嬉しいです♡ )
(「青年」が「掛け違えたボタン」の相手として語っている彼は、ある元メンバーを強く想定して書いているんですが……おわかりいただけると嬉しいのですが……)